八色の日々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漂わせる、

と言う言葉には
満を持する と言う含みがあります。
ここにやって来た鉱物などは
一旦、漂わせてみる
と言うことをよくやっています。
装身具になるのか
眺めるものとして愛されるのか
違う用途としてそばにいるのか
モノとの会話のような時間があって、
ようやく 決まるという事は
作り手でもそうでなくても
モノとの(人間以外の)会話 は無意識によくやっている事だと思う。
それは人間同士の会話とは全然違って、
対象物に 私は好かれたい 良く思われたい
と言う発想は出てこないし、
まして 羨ましいとか悔しいとか腹が立つこともない
当たり前のことなのだけど、
人間同士になった途端それができなくなる、
それは
分離している(自分と他人)現実に恐怖を感じているからなのでしょうか
変に似てる姿カタチをしてるから
同じ価値観であるべき と期待してしまうのでしょうか
モノと私は比べようがない、比べない
絶対的な安心感の中でのやりとりなんです。
その会話は
スーと放射状に溶けてくように跡形もなくなり、清々しい、
人間同士のような裏表もなく、作意もなく
戻ることもなく
この一瞬ごとに、
モノを見る 
モノもこちらを凝視する
そうすると
自分がそのモノとなり、自分を見ている感覚に落ち入り
やがて、私とモノとの境目がなくなり溶けていきます。
これを一旦味わうと、
お腹の赤ちゃんみたいな安心感(知らんけど、思い出せないけど)
どっしりと自分を肯定、
自分じゃないと思い込んでる(他人)も肯定、
分離の世界から 非二元の元へ行きます。
この会話の時、
目は半眼していることに気づきました。
だから
仏さまは半眼で
こちら側を見ているのか!
と勝手に合点が行くのでした。
同じ現実も、人によって真実が違うこと
おもしろい遊びを人間は思いついたもんです。
だから 溶けあってひとつになって漂ってることに 気づける瞬間があれば嬉しいなと思う
今日はその目で、何を見ますか
どうぞ、
良い一日を。